ふと、伊集院静の小説の一節

以前読んだ伊集院静の小説で、実話がもとになった話がある。

離婚した主人公が、高校生になった娘と14年ぶりに再会するという物語。
ふたりは上手く話せないまま、学生野球のリーグ戦を観戦することに。
試合は六回を過ぎ、八対〇のワンサイドゲーム。
負けているチームのほうには応援がいなかった。

「食べませんか」
娘はそう言って、ハンカチを突き出したまま目を伏せた。
見ると中に数個のカラフルな色のキャンデーが乗っていた。

「空色のをひとつもらおうか」
私はブルーのキャンデーをつまんで、それを口の中へ入れた。
甘いサイダーのような味覚が口にひろがった。

「パパは野球をしていたんだってね」
私は体が硬直した。パパという言葉と野球という言葉が、私を驚かせた。
私はガリガリと音を立ててキャンデーを噛み、目を開いて野球を見た。
返事ができなかった。どうしてこんなに不器用なのかと呆れた。

「もうひとつ食べる?」
娘はまたハンカチとキャンデーを差し出した。ひとつめは気づかなかったが、
それぞれのキャンデーは木の実のようなかわいいかたちをしていた。
今度はオレンジ色のキャンデーを食べた。
音がするほど噛んだ。さし歯が折れそうだった。かまわないと思った。

「元気の出るキャンデーだね」
「本当に?」
私は娘の顔を見た。彼女の白い歯が見えた。頬に小さなえくぼがのぞいていた。
「本当さ、一粒で三百メートルだよ」

そういって私は立ち上がると、フィールドに向かって、
—– カッセイ、カッセイ
と怒鳴った。そしてスコアボードの打者の名前を見て、
—– カッセイ、カッセイ、モチヅキ!
と大声を上げた。周囲にいた男女が、一斉にこちらを見た。
—– カッ飛ばせえ、カッ飛ばせえ、望月!
私はあらん限りの声を張り上げた。

娘を見た。白い歯をいっぱいにのぞかせて彼女は笑っていた。
私はもう一度、大声を出した。次の打者の名前を叫んだ。
負けていたチームの攻撃が終わった。

私はベンチに座った。頬がほてっていた。恥しいような気がした。
「次は、みのりも応援する」
私は娘の顔が見れずに、うなずいた。
私たちは負けていたチームの攻撃になると立ち上がって声を張り上げた。

娘の声援のしかたは、ひとテンポずれていた。私はそれに合わせた。
二人とも不器用なのだと思った。
声を出しては、私はキャンデーを噛んだ。

私は再会の約束をした方がよいのだろうかと思いながら、
何と言いだしたらいいのかわからなかった。それは娘も同じように思えた。
娘は地下鉄のドアのガラス越しに手を振った。私も手を振った。
私は走り出した電車に体が引き寄せられそうになった。
電車は闇の中にスピードを上げて消えて行った。

「クレープ」というタイトルの短編の一節です。
養育費だけ送金していた主人公が、一度も会ったことのない娘と初めて会う。
罵られるのも覚悟で臨んだ再会で、娘が優しい子に成長してくれたことの嬉しさ、
自分を理解しようとしてくれている喜びなどが、不器用な主人公の所作に表れ、
感情が動いてしまいました。

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