島の病院に駆けつけた僕たちは、母親が小さく息を繰り返しながら、目を閉じて、いや
少し薄目をあけて遠くを見ているような表情を見つめていた。意識があるのか、ないのか
わからなかった。
兄ちゃんが
「かあちゃん、来たよ」
と叫びながら手を握ると少し目を空けて、頷いた。
兄ちゃんも僕も涙が止まらず、何を言ったらいいのかわからなかった。
先生が来られて、
「もう少しで意識がなくなるのではないかと思います」
とのことだった。
僕はいろいろと口に出して伝えたいこともあったが、なぜか憚られた。
兄ちゃんは母親の面倒をこれまで見てきて、
この2ケ月間はノイローゼになるくらい夜通しで介抱してきた。兄ちゃんが母親に声をかけ
る、叫ぶ権利を持っている。という気持ちになっていた。
それからまた血中酸素濃度は持ち直して母親は眠り始めた。
しばらくその状態が続くというので、僕はどうしても東京に戻らなければならない用件
で、最終の新幹線で東京へ向かった。東京の自宅に到着後、さっそく次の日の仕事の段取
りに取り掛かった。早々に仕事を片付けてすぐに実家へ戻るつもりだった。
その未明に兄ちゃんからの電話があり、
母親が亡くなったことを知らされた。
兄ちゃんはその日19時過ぎまで母親に付き添っていたらしい。
母は珍しく、
「もうちょっとだけ、そばにおってくれる?」
そう頼んだそうで、
「わかった、わかった。」
と頷いたそうだが、疲れ果てていた兄ちゃんはほどなくして帰宅したらしい。
そのことを僕の前で、
「もうちょっとだけ、そばにおってやったらえかった。。」
と嗚咽しながら話した。
母はその日の19時過ぎに亡くなった。
兄ちゃんは、
「やはり引き潮に人は亡くなるんじゃのう」と何度も繰り返し言った。
その日の干潮は19:40だった。
僕は翌日のお昼に実家へ到着した。
兄ちゃんは朝6時にもう一度島の病院へ向かい、母親の亡骸を持ち帰っていた。
帰宅した母親の顔を見て、寂しさがこみあげてくるようだった。医師から後わずかと
伝えられ、母親が息絶え絶えになっている姿に、ひとりで旅立たせるのが、たまらなく
かわいそうで涙が出た。
死に目に会える、会えない。という言葉があるけど、ひとりだけで旅出させてしまうのが
かわいそう。というのが、この考えの根本にあるからなのかもしれない。
棺を覗き込んだ時は、子どもの頃から今までの記憶の中にいる母親が、ごっそり抜け落ち
てしまうような悲しさで涙が出た。僕の体や人生は母親からもらったものばかりで出来上
がっているんだ。と感じた瞬間だった。
葬儀は僕の息子2人と兄ちゃんの4人だけの家族葬。
次男は10代の時、不登校で家にも帰って来ず手に負えなくて、母親に頼んでしばらく実家
に預かってもらったことがある。長男は次男ほどの面倒はかけていないが、ふたりがお互
い相談相手になっていたようで、普通の孫とは異なる、また普通の祖母とは異なる存在だった。
たくさん愛情をもらってばかりの4人衆で家族葬をすることに。。
仏間をきれいにし、床の間に生け花を生け、遺影が出来上がってきた。その後、美装と言
われるご遺体を整える方たちがやってきて、少し口が空いていたのを僕は気になっていた
が、美しく整えてくれた。
グレーに染めた髪が、生え際からの白髪で後退していたので、白髪染をやり直してくれ
た。母親が生前希望していた黒のブラウス、ベージュのツイードのスーツを着せてあげた。
薄化粧に口紅。
まるで眠っているよう。
少し昔の眠っている母親を見ているようで、また涙が出た。もらってばかりで、何も返せなかったな。。