母である時間

おふくろが倒れた!
兄ちゃんから電話があったのは、猛暑が連日続く8月の上旬で、
実家で倒れて救急搬送されたとのことだった。

母親は肥満気味で、心不全の兆候が出てきており、
近頃では歩いただけでしんどそうな顔をしていたりする。

「大丈夫?」
と聞くと、きまってニッコリして、
「大丈夫よ」
と笑顔で返してくれるのだった。

倒れたのは実家の居間で、ほとんど意識がなかったと聞いた。
救急隊が実家に到着し、隊員はかがんで大丈夫ですかと尋ねた。
「大丈夫ですか、聞こえますか?」

「あんまり暑いんで、横になって涼んでいます。」
と答えたそうだ。
兄ちゃんはそれをみて、半笑いしたそうだ。

そのまま、隣町にある労災病院に入院した。
入院時点では酸素吸入をしていたが、数日でほどなく外された。
心臓には水が溜まり足や腕がひどく浮腫んでいた。
溜まった水分を対外に排出するよう薬を処方されていた。

心臓は弱っていたものの少しずつ回復へ向かっていて、
僕は母親が入院後しばらくして広島の実家に戻り、
兄ちゃんと一緒に病院へ見舞いに行った。

病室は7階奥で、老齢の女性が他にふたり入院する病室に入れられており、
母親は眠っている最中だった。
しばらくして目を覚ました母親は、僕が来たことに気づき、
「来てくれたん。遠くからわざわざごめんね。」
相変わらず気兼ねする性格は変わっていない。

兄ちゃんが飲み物とアイスクリームを買ってきて、
「食べる?」
と聞くと、母親は真顔で、
「家に帰りたい!頼むから帰らしてくれ。」
と拝むしぐさを何度もした。

「ああやって、家に帰せ、帰せ。ばっかりよ」
「実家に帰りたくてしようがないんじゃろう」

母親はこれまで入院したことはなく、
実家は母親にとって想像以上に拠り所のはずだ。
ましてや他の患者と一緒の病室で過ごす日常がたまらなかったようだ。
見舞に行く度に、兄に家に帰してほしいと懇願するのだった。

また次の日に見舞に行くと、
「おふくろは、寝たきりで背中が痛いんよ。さすってやってくれるか。」
と兄ちゃんは母親の背中をずっとさすってやっていた。
「足の爪が伸びすぎて、ケガのもとになるので切ってやってくれ」
兄ちゃんはそのまま買い物に階下へ降りていった。

「爪を切ったげるよ」
僕は母親の体を起こして座らせ、浮腫んだ左足の指先をつまみ、爪を切り始めた。
足の爪はしばらく歩いていないことから、巻き爪になっており、
足の指に食い込んでいた。爪の色も黒ずんでいてもろかった。
「子供というのは、ほんまにありがたいもんじゃのう」
しみじみ言葉を吐き出した。

母親は相変わらず、家に帰してくれと何度も泣きつくものの、
体内に溜まった水を排出しなければならいこと、
心臓が弱っているため自宅に戻ったら緊急時の措置が難しいこと、
などを理由に、兄ちゃんはやんわりこう伝えた。

「心臓の水が少なくなっとるんで、もう少しじゃ」
母親は疑うような顔で、
「ホンマに帰れるん?」
「ホンマはもう帰れんのじゃない?」

「帰れるよ」 「大丈夫!」
兄ちゃんは同じ言葉を何度も繰り返した。
母親はもう自力で歩ける状態ではなくなっていた。

入院から3ケ月後、兄ちゃんが母親を自宅へ戻す決断をした。
ヘルパーさんに時々来てもらい、入浴介助やトイレの手伝いをしてもらっていた。

兄ちゃんは酸素吸入機、介護用トイレをレンタルし、
できるだけ自分で母親の面倒が見れる環境を整えた。
全力でこれまでの恩返しをしているかのようだった。

それでも母親が夜中に何度も目を覚まし、
兄ちゃんは2階の自分の部屋に引いたブザーで起こされ、
トイレ介助に階下へ降りていくのだった。
そんな生活を1ケ月ほど過ごし、今度は兄ちゃんが倒れそうになった。

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