母の強がりとため息

僕は日頃、父と会話することは少なく、何となく距離を感じていた。
その時代の男はそういったものだったと思うし、
僕自身もそういった「男は黙って・・・」という側面を持っていると思う。

ただ父はなかなか厳格な人で、細かいことにもうるさいところがあった。
母親は父とよくケンカもしたが、性格が鷹揚なこともあり、
あまり意に介していなかったと思う。
現代では両親がケンカすると、子供への精神的な影響は計り知れない。と
盛んに言われているが、僕の両親はどこかでお互いを信じている様子が伺えた。

そんな父がガンで他界したのはもう随分前のこと。
全身にガンが転移し、自身で緩和治療を選択した。

「治るなら頑張るが、治らんのじゃけん。。」
「これで終わりにしたい」
と僕たち兄弟に告げたのは、亡くなる1日前だった。

父にはふたりの妹と、姉がひとりの4人兄妹。
広島に原爆が投下された日、4人は広島市内にいて被ばくした。
父が3人の手を引いて街を歩いて逃げた。と聞いたことがある。
姉妹たちは、父が死を選択したことを知り病院に駆けつけた。

「あんちゃん、あんちゃん!」
とすがりついて泣き叫んだ。
父のお父さんは早くに亡くなり、母親は父が幼い時に姿を消したらしい。
姉妹たちは父が親代わりだった。

学校では憧れの兄さんだったと何度も聞かされた。
何となく想像はできた。
僕の母親はそんな姉妹たちを横目で見ていたが、感情は見せなかった。

父は長男ということもあり、姉妹や親戚の家族たちを自分の家に呼んで、
法事や様々な行事を毎年何回も家長として催してきた。
数十人分の食事の用意や、行事の段取りをほとんど母親がこなしていた。
母親にはその度量と自負があり、父の妹たちとは意識が異なって見えた。
母親がどのような気持ちにあるのか斟酌できない妹たちは、
病院で涙を流して、泣きわめたいた。

僕は遠くから見ていて、父がどのように最後のことを母親に伝えているのか
気になっていた。
移動式ベッドに乗せられた父は、
「それじゃあ」
と言って、妹たちに握られていた手を離した。

そのまま終末期の措置をするため、エレベータに消えて行った。
戻った時には、父は棺桶に納められていた。

母親は何とか普段と変わりなく振舞っていた。。
「平気よ。大丈夫。」
と強がっていたが、これがどういうことなのか理解が及んでいなかったのではないか。。

「お父さんは、私のことが好きじゃったんかね」
それからしばらく、溜息をもらす日々が続いたように思う。
一緒にそばにいることが当たり前だった日常が、
いなくなった後のことを、多く語り合うこともなく消え去り、
母はひとつひとつ、過ごした日々のことを思い出しているようだった。

「大工仕事は器用でね。机も椅子も、何でも上手に直してくれた」
「新聞を長い時間かけて全部読む人じゃった」
「お父さんは、私のことが好きじゃったんかね。。」

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